UglySmile

人生には物語とROCKが必要だ。

『私に天使が舞い降りた!』最終話における劇中劇のシナリオに対する解釈

最終話のミュージカルについてどうしても気になる事があって、スマホのメモ帳に考察をつらつら書き溜めていたんですが、筆(指?)がノッてしまいTwitterで投稿するにはなかなかの文量になってしまったので、久しぶりにブログを更新することにしました。

あと、ついでにここで長らくブログ更新を停止していたことに関して一言釈明させてもらうと……なんというかまあ、ハッキリ言えば面倒臭くなったからです。いやぁ自分、物書きの才があるわけでもないので、文章の構成とか考えるのにエラい時間がかかるんですよねぇ。で、色々と試行錯誤していたらなんか途中でメンドくなりましたテヘ

いやまぁ、別に語りたいことが無いわけではないのですよ。ただ、やっぱりモチベがねぇ……。その点、Twitterは散文に適した環境なので手軽ですよね。独り言ツールなのでブログと違って読者を想定する必要もありませんし。人類はTwitterの発明によって、ついにコンテクストから解放されたのだ(黙れ

 

 

 

では言い訳も程々にして始めましょう。

劇中劇のシナリオで僕が最も引っかかりを感じたのは、人間の娘であるデイジーとの恋を成就させるために、アネモネが天使としての自らの属性を喪失させるという流れです。

なぜなら、作品タイトルにも使用されている「天使」という言葉。一般的に無垢で神聖なイメージを附して大人が少女を形容する際に用いられる「天使」という言葉。アネモネの堕天はこの意味合いで用いられる「天使」という言葉を、見ようによっては否定するものと解釈することも可能だからです。この点に僕は違和感を覚えました。

 

"天使"が登場するアニメで、なぜ天使を否定する劇を描いたのかと。

 

まあ、正直そこまでドライな話でもないのでしょうが、引き篭もりがちな女子大生の導き手として小学生組の天使性をことさら強調してきたこの作品のラストに、本気作画とガチ脚本でもって異化効果的に刺激を与えてくる劇中劇の根幹にある設定には、やっぱり何かしらの含みを勘繰ってしまいたくなるのが考察厨の業というものでしょう。

 

 

アネモネが生まれた天使の国はどこまでも花園が広がる、「光に包まれて」「穏やかな愛に溢れている」いわゆる"優しい世界"です。対して彼女がデイジーと出逢うために堕天した人間界は、ときに冷たく、ときに暗い試練が待ち受ける、痛みも別れも遍在する"誰得シリアス"な世界でした。

この二つの世界の対比だけでも何らかの寓意を感じ取ることができそうですが、僕はこれらの世界について二項対立的なアプローチで解釈するよりも、天使の国を離れて人間界を目指す、その段階的連続的なアネモネの行為性にこそ着目した方が、解釈の余地があるのではないかと考えています。

僕は人間界のシビアな描写が、単に二人の愛の障害として、その悲劇性を高めるためだけの舞台装置だったとは思えません。ここでカギとなるのが「時の峠」なるワードです。天使が人間界で存在できるようになるにはこの峠(物理)を越えなければなりません。また、それに伴ってアネモネには人間界における三世代もの時間の進行が課せられてしまいました。おのれ騙したなカルム!

アネモネは人間として生きることを許されるために、永い時間をかけて(体感時間では一晩)デイジーの菓子店に辿り着きます。時を越えなければ辿り着けないもの。ここで、天使の国と人間界の横断という行為が何を意味するのか見えてくる気がします。時間が進むことは、歳を重ねることと同義。つまり、天使の存在が少女性、あるいは"子供"としての象徴を仮託されているのなら、対照的に人間の存在は"大人"としての象徴を仮託されているのではないかと。

そう考えると、アネモネがデイジーからカップケーキを差し出された際、カルミアにはアネモネの姿が見えなかったのも納得できるかもしれません。カルミアはデイジーとは違って"恋に恋する"ような子供ではないからです。カルミア花言葉の一つには「優雅な女性」というものがあり、対してデイジーの花には「無邪気」という花言葉があります。まだ幼さの残るデイジーだからこそ、御伽話の世界でしか登場しないはずの天使を認識できたのではないでしょうか。

ちなみに、その多くがサザエさん時空である日常アニメというジャンルで年月の進行という展開を描くのは、劇中劇とはいえ視聴者層を考えるとなかなか挑戦的な事のように感じます。あえてそこに踏み込んだのも制作側にそれだけの強い理由があるからのように思えるんですよね。

 

 

では、さらに解釈を進めて「天使が人間になる=子供が大人になる」という構図を劇のシナリオに組み込んだ、制作もとい監督の意図とはなんだったのか考えてみたいと思います。

とりあえず結論から言うと、アネモネの堕天は「早く大人になりたい」と願う幼い少女の普遍的な成長願望を表現しているのだと僕は解釈しています。そしてアネモネという天使を花が演じることの意味も、その点と不可分であると考えています。

どういう事かと言うと、劇におけるそれぞれの配役には彼女ら演者自身の性格が微妙に投影されてる気がしていて、ひなたの幼さや、乃愛の多面性、そして花に至っては普段からひなたの子供じみた遊びには興味を示さない(そしてニンジャにすら関心を示さない鋼メンタル!)、彼女の大人びた振る舞いの奥にある「大人の女性への憧れ」が見て取れる気がするんです。

ここでハッキリ言えば、この劇が意図するものとは花の深層心理であると結論付けることができるんですね。ただし、だからと言って花がひなたと結ばれたいと心の奥で願っているというような話ではありません。デイジーとの悲恋はあくまで、彼女のなかに募る不安感の表れであると思っています。では、その不安とは一体何か。それはズバリ、みやこに見放されるという不安です。

デイジーはひなたの純粋性を担うと同時に、花のみやこへのイメージも投影されていると僕は考えています。というよりもデイジーが担う役目の本分はそちらにあるのでしょう。彼女が菓子店を営んでいるのもそのためです。みやことの別れに対する花の不安は、本編では第1話と実質最終話である第10話と合わせて(笑いでオチてはいるものの)印象的に描かれていました。過酷な「時の峠」が象徴している最も大きなものは、花の恐れの中に見られる時間の残酷さなのかもしれません。

さて、10話において不安を覚える花に対し、みやこが返した言葉は「一生、花ちゃんのためにお菓子作ってあげる」でした。花はみやこのその変わらぬ愛情を確信して安心します。(本気でお菓子の心配しかしていなかったのかもしれませんが……)  そこで、このやり取りに照らして考えれば、デイジーを失ったアネモネの悲しみを癒すように、彼女に寄り添い続ける存在として登場したマリーが担っている意味性も理解できるようになります。

アネモネが自身の神性を失う代わりに課せられる因果は、時間の進行の他にもう一つ存在しました。想い人からの愛情を得られなければこの世から消えてしまう、という過酷なものです。ですが、デイジー亡き後もアネモネは人間界に留まり続けています。劇中、同様の疑問に至る彼女の目の前に、マリーはいつかのカップケーキを差し出します。そして彼女は納得するように哀しげに微笑みました。

デイジーアネモネに対する愛情は、羽のモチーフをあしらったカップケーキという形で結実し、さらにマリーがそのレシピを継承する事でこの世に留まり続けたと考えるべきでしょう。最期の時まで添い遂げる二人の日常が流れた後、マリーを表象する花がマリーゴールドであると判明する流れはなかなか心憎いです。マリーゴールド花言葉は「変わらぬ愛」。これは言うまでもなく、花に対するみやこの感情を言い表すものでもあるからです。重いぞみゃー姉。

つまり、この劇のシナリオは一貫して花の心理や、みやことの関係性を再解釈して構成された物語だったのではないかと僕は考えています。

 

追記:本編を観返して気付いたのですが、1話で花がコスプレ撮影のご褒美としてお菓子を頂くシーンと、10話でケーキ屋デートの待ち合わせ場所にみやこが到着するシーンに流れていたBGM(公式サウンドコレクションによれば『苦労して手に入れたお菓子』という曲名)、それをミュージカル楽曲としてアレンジしたものが、アネモネが「時の峠」を越えるシーンの劇中歌なんですよ。

アネモネがデイジーのもとへと至る道程で使用されていた楽曲と、花がみやこお手製のお菓子やみやこ本人を指向する場面で使用されていた楽曲に繋がりがあるなんて、なんだかとても示唆的ですよね。

 

 

 

さて、ここから先は単なる個人的妄想になりますが、僕が作中で疑問に思う点の一つに「花がみやこに惹かれる理由はお菓子以外にあるのか?」というものがあります。それを恋愛感情という言葉で表現するのはちょっと軽薄で限定的な気がするので、ここは曖昧に「百合感情」なる言葉を用いて、それが適用される守備範囲は読者の方それぞれの解釈に委ねたいと思います。

花はみやこに対して百合感情を芽生えさせているのか?  そうだとしたらそこにはどんな原理が働いているのか?  分かりやすく言えば、果たしてみやことの関係で腹以外に花が満たされているものとは一体何なのか?  という疑問です(笑)

僕はこの疑問に対し、今回のミュージカルの解釈を通じて改めて花とみやこの関係性を振り返ってみたことで、たまたま一つの可能性に思い至りました。みやこはスキルは高いですが、正直言って年上女性としてはなんとも頼りないです。ですが、むしろその頼りなさこそ、花がみやこに惹かれる土台となり得るのではないかと。

前述した通り、僕は花が内心に強く「早く大人になりたい」という成長願望を抱えていると考えています。それが確かであるのなら彼女はひょっとして、大人のくせに頼りないみやこを自らリードする事によって、擬似的にその願望を叶えているのではないでしょうか。みやこは花を一生の関係を誓うほどに盲愛しています。花はその優位性によって、自己有用感と他者承認を常に約束されているのです。

たまりません。この倒錯的な共依存関係。成長しているようでその実態は閉鎖的で退嬰的で脱社会的。僕が最も好き好む百合空間です。尊い……。尊いぞわたてん。

 

 

そしていま、僕は確信しました。

 

花ちゃんはやっぱり攻めだな(自重しろ)