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『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』8話・9話 感想と考察:ギルベルト・ブーゲンビリアを待ちながら

※本記事の内容は8話だけでなく、9話のネタバレも含んでいます。未視聴の方は9話を視聴したうえで読まれることをお勧めします。

 

 

 

更新が遅れてしまいましたが、第8話(サブタイトルなし)と、第9話『「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」』の感想と考察です。

ヴァイオレットとギルベルト少佐の出会いからインテンス奪還作戦までを描く過去編。8話はこれまで断片的に語られてきた二人の交流を詳しく描いたエピソードですが、ヴァイオレットが陸軍内でどのような扱いを受けてきたのかは、彼女のこれまでの偏った言動からなんとなく想像はできますし、すでに山場となるシーンを観せられている側としては、ぶっちゃけ今更感がハンパなかったです。ただ、少佐という拠り所を失った彼女の"喪失"に深く寄り添うために、過去をつぶさに振り返ることは必要だったのだろうとは思っています。

この過去編、原作では上巻ラストに配置されているんですが、続く下巻の頭にはこのエピソードを少佐視点で捉え直して、彼の生い立ちや内面を掘り下げていく一編が収められています。しかし、8話にはそのあたりの描写は個人的に読み取れなかったので、この回のメインゲストである少佐の心情について解釈しようにも、原作既読の自分としてはどこまで語っていいものか悩みました。もしかしたら次の回でそのあたりの描写があるかもしれないと考え、ネタバレを避ける意味でも9話が放送されるまで記事は控えていたんです。まあ、変にカッコつけたり欲張ったりせずに、なあなあな感じの記事で済ませておけば良かった話ではあるんですけど……。

で、そんなこんなで視聴した9話ですが、7話ラストから続いた「過去と向き合うヴァイオレットの物語」に一応の区切りがついたものの、やはり過去編の内容は彼女に感情移入させることを主眼として、事の経緯を見せることを第一義にしている感じがしました。(つまり原作上巻ラストのエピソードの映像化に留まっていた) ともあれ、ここまでなら語っても大丈夫というメドは立ったので、これでようやく記事が書けそうです。べ、べつにメンドくさくなって更新サボってたワケじゃないよ!

あ、それと今回は8話と9話を一緒に語った方が何かと好都合な気がするので、まことに勝手ながら二編をまとめて記事にさせてもらいます。いやホント、なんかもう色々とメンドくさくなったワケじゃ決してないから!

では言いがかりと言い訳もほどほどに、まずは考察から。

 

  • 届かない手紙

 

8話はヴァイオレットと少佐の出会いのシーンから始まりました。2話アバンの続きですね。ヴァイオレットの頭を押さえつけるディートフリート大佐と、それを見て彼女を庇って抱きよせる少佐。抑圧と抱擁という対照的な態度が、ヴァイオレットに対する二人の向き合い方を端的に表現していたように感じます。ヴァイオレットを戦争に巻き込んで道具として活用した周囲の大人たちは、なかなかのクソッタレとして劇中で描かれてはいるんですが、でもそのテンプレな非道っぷりにも一応の解釈は可能なんですよね。

軍隊において重要なのは強い意思決定です。いちいち合議や調整をして現場の意向など汲んでいたら作戦が右往左往して指揮系統がグダってしまいます。命令は絶対。余計なことは考えるな。トップダウンの即断性が理想とされる有事において、平時の論理なんて通用しません。上層部がヴァイオレットを武器として運用すると決めたのなら黙って従うほかないのが彼らの立場です。それに感情抜きにすれば上層部の判断も妥当でしょう。子どもだろうが女の子だろうが、身寄りもなく文句も言わない、殺せと命じられれば躊躇しない一騎当千の絶大な戦力。合理的に考えれば利用しない手はないです。

とはいえ、やはり感情的には不快感も否めません。ワルぶってへらついてた陸軍少将だって人の親だったのかもしれません。上層部の命令と感情論。矛盾する認知を抱える彼らは任務を遂行するために、自分のなかにあるヴァイオレットへの同情心を押し殺します。いわゆる認知的不協和の解消という心理状態ですね。人は自分の理解とは矛盾する別の認知に直面して、不快な不協和状態にあるとき、自分にとって不都合な方の認知を歪めようとします。アニメ批判の場でもよく見かけますよね。自分の理解力を棚に上げて作品の不備をでっち上げる人。(特大ブーメラン)

ヴァイオレットの周囲の大人たちも一緒でした。上からの命令なのだから仕方ない。話の通じない野蛮なガルダリク兵が侵略してくるのだから仕方ない。戦争なんだから仕方ない。自身を正当化するために彼らは必死になって認知を歪めていきます。そうしなければ自分を保てないからです。「命令すれば戦う。人の形を模しているだけの、心を持たないただの道具」 ヴァイオレットの周囲で囁かれたというこの言葉も、その過程で生み出された"教義"だったのかもしれません。都合のよい思い込みによる心の断絶。それは前回語られた「共感」とは対極にあるものです。人を戦う人形にさせる戦争という状況が、届かない人の想いの極点として演出されています。

8話の冒頭、少佐に押し付けるような形でヴァイオレットを託したディートフリート大佐が、意味ありげに顔を逸らす仕草。ひょっとすると大佐のなかにも、必死にヴァイオレットを道具だと思い込もうとする葛藤があったのかもしれません。だから人間らしい行動や感情を見せる彼女と相対したとき、自分のなかで歪めた認知との矛盾が再び起こり、不快感を露わにしたのではないでしょうか。彼女を人間扱いする少佐に偽善ぶるなと怒りをぶつけた少将と同じように。(大佐の心情に関しては現時点では語れない部分も多々ありますが)

そうやって誰もが彼女の人間性を認めない空気のなか、その臭気に顔をしかめ続けた唯一の人間が少佐でした。生真面目な生来の気質もあり、身近で接するヴァイオレットのなかのわずかな心の存在を見逃すことのできなかった少佐は、彼女を出来るだけ戦場から遠ざけようとします。さらに彼女に名前を与え、文字の読み書きを教え、彼女の力がただ奪うだけのものではないことを実感させようとします。それは陸軍内の空気に抗う、彼のもう一つの戦争でもあったのかもしれません。

しかし、そんな少佐も生粋の軍人でした。彼のなかの認知的不協和はほかの誰よりも重く激しいものだったはずです。ヴァイオレットの人間性を無視できないくせに、生傷の絶えない扱いに加担し、彼女に報告書は書かせても「美しい」という言葉すら教えてやれなかった自らの情けなさや恥ずかしさが彼の後悔を強めます。無骨な軍服には不釣り合いなエメラルドのブローチは、まるで彼がヴァイオレットに与えるものの矛盾を象徴しているかのようでした。ちなみにエメラルドの石言葉は「心の安定」や「幸福」といったものですが、愛の成就という意味合いもあるのだとか。それらの言葉は決してヴァイオレットに届くことのない少佐の想いの物悲しさを引き立たせます。

自分のなかの矛盾を解消できないまま、大聖堂奪還作戦における遊撃隊を率いた少佐でしたが、ホッジンズ社長と再会し、大戦後のヴァイオレットの去就について冗談めかして語ったことは、彼にとって希望となったに違いありません。誰一人として考えようとしなかった、彼女を軍隊や戦火から切り離すという選択への光明を、社長は示してくれました。大聖堂制圧時に照明弾を放ったときの少佐の安らかな表情は、彼のなかのもう一つの戦争が終わったことによる安堵の表情だったのではないでしょうか。でも、そんな彼の想いも、やはりヴァイオレットには届きません。

 

  • 彼女の名前

 

ヴァイオレットは少佐が自分を不要になったのだと思い込みます。彼女にとってそれは戦場よりも恐ろしい宣告です。出会ったときから彼女は野犬のように警戒心が強く、そして誰かに必要とされたがっていました。主人への服従は彼女の存在証明だったんです。僕は第5話の感想記事のなかでアシモフロボット三原則に例えて彼女の行動規範をまとめてみましたが、それにならって彼女のこの従属心を説明するなら、それはさしずめ「第零法則」のようなものでしょうか。

彼女は誰かの命令によって必要とされ、"使用"されなければ生きていけません。「誰かに命令される」という原則を維持するためなら、現使用者が自分を放棄するという決断にさえも反発します。少佐の「自分を置いて逃げろ」 という命令は、少佐からの命令を今後はもう失ってしまうことを意味しますから彼女の「第零法則」に反するものなんです。この一見倒錯した関係はカプリア防衛戦時も顕著でした。

「ここにいろ」という少佐の命令を無視して、自らの戦力を誇示したヴァイオレットは眼で訴えます。「命令を」と。(少佐が命令せざるを得ないような状況に追い込んだとも読み取れます。あるいはアニメにおいて、少佐の命令に彼女がはっきりと応える場面はこれがはじめてなので、少佐と彼女の主従関係のはじまりと捉えるべきかもしれません) 彼女には大義も正義もありません。軍人である少佐に必要とされる手段が、「殺し」だったというだけです。罪の意識なんてありません。あるのは自らの存在理由が満たされる充足感だけです。彼女が道具であることは、彼女自身もまた望んだことだったんです。うーん、なんだか少佐の一人相撲のような気がしてきましたね。

でも安心してください。少佐がしてきたことは間違ってはいませんでした。ただ、足りなかっただけです。少佐が彼女と出会い、抱きしめたときから、主従関係とは別の繋がりが二人のあいだには伺えました。彼女は少佐の瞳をいつも注意深く観察し、彼の眼の表情と彼の快・不快の関連を読み解けるようになりました。少佐と社長が決戦前に会話していたとき、「他にさせることがあるだろう」という言葉で痛いところを突かれた少佐の眼が、苦悶の表情を見せたときも彼女は即座に反応し、ブローチを付けながら少佐が涙を浮かべたときも、その眼を慰めるように彼女は感謝の言葉を繰り返します。

少佐の想いはヴァイオレットに届いていましたが、彼女の言語能力ではそれを理解して適切な反応を返すことはままなりません。1話の感想記事でも書いたように彼女の心の欠落の原因は、平時の日常生活で用いる言葉が不足しているためと考えられるからです。彼女が自身の感情を正しく認識することができないのは、自らの感情を掬い上げるための言葉を持っていないからでしょう。少佐に足りなかったのはそのための言葉を彼女に与えること、ただそれだけだったんです。しかし二人にはもうそのための時間は残されていません。少佐を守るための両腕を失い、自身にとって最重要な規範すら失いつつあるヴァイオレットの不安は極限に達し、親に置いて行かれる子どものように泣き崩れます。それは紛れもなく少佐が育んできた彼女の人間性の発露でした。

過去編以外は完全オリジナルで展開される9話では、このヴァイオレットの精神的な脆さが強調されていました。少佐がかつて少将に意見したように、彼女は普通の少女でもあります。ま、まあ戦闘能力に長け、どこかの世界線では鎖分銅付きバトルアックスを振り回すようなやんちゃ娘ですが(汗)……。それでも石川由依の渾身の泣き演技は、ヴァイオレットが年相応の普通の少女でもあるということを視聴者に強く印象付けます。その姿を通して視聴者は「心を持たないただの道具」という言葉が、なんの正当性も持ち得ないものであったことを改めて理解させられるんです。

ヴァイオレットの純粋性は皮肉なことに、言葉と心の発達の遅れによって担保されています。彼女はその純粋さゆえ、大人のように器用な言い訳ができず、過去の行為による罪悪感をまっすぐに受け止めてしまい、その不協和を解消することができずにいるのかもしれません。この罪悪感は彼女の夢のなかで少佐の姿となって、現在のドールとしての彼女を否定します。「愛してる」の言葉の意味を知ったところでもう彼はいない。どんな想いで彼がそう告げたにしろ、自分はもう誰かに愛される資格なんてない。そんな自分がドールとして人の想いを繋ぐ仕事などできるわけがない。

どんな感情の奔流がヴァイオレットのなかにあったのかははっきりとは分かりませんが、彼女は机に積まれた本とぬいぐるみに怒りをぶつけて現在と過去の自分を否定しようとします。彼女にとって机の本はドールとしての自分の象徴であり、ぬいぐるみは「ギルベルトの犬」としてのかつての自分の象徴だったのでしょう。ぬいぐるみを床に叩きつけられなかったのは、少佐に愛された過去の自分をそこに重ね、そのときの彼の想いまで否定できなかったからかもしれません。

そうして彼女の罪悪感はとうとう自殺念慮へと到達してしまいますが、ここは色々と視聴者の意見が分かれるところかもしれませんね。どういうことかというと、少佐の「生きろ」という命令を守ってきた彼女が自殺など考えるのか。という疑問についての解釈です。僕はヴァイオレットは少なくとも5話の時点で、少佐の命令が無くても生きていけるくらいの主体性は身についていたと解釈しているので、(詳しくは5話の感想記事を参照してください) 彼女の自殺衝動は彼女の自由意思の証明であり、死ぬことができなかったのも、少佐の「生きろ」に従ったというよりは、死の理解とその恐怖によるものであったと考えます。それらはこれまでの経験によって彼女が得てきたものであり、そうして積み上げてきたものが彼女を生かしたのだと思っています。

しかし、自分の意思と責任で今後を生きていく勇気まではヴァイオレットにはまだなかったのでしょう。自らの意思によるからこそ生きることも死ぬこともできない彼女は、以前のように少佐という「道しるべ」の命令を欲して思考を放棄しようとします。彼女は確かに少佐と再会できる日を信じて待ちながら、「生きろ」という命令によって生かされてきたのでしょうが、でも彼女自身も気付かないうちに、すでにドールとしての彼女の同一性が、少佐に代わって自らに、軍人とは別の生き方を指し示していました。その証しと正しさが、彼女がこれまで繋いできた人々の現在の姿です。

言葉によって繋がれる人の関係性。彼女はとっくにその一部として社会に受け入れられていました。手紙は贈る物であると同時に贈られる物です。これまでのヴァイオレットの仕事の成果が、"断つ者"としての「道具」から、"繋ぐ者"としての人間へと再生を果たした彼女の現在を、彼女自身に届けてくれます。

最後に、少佐はどのような意図を込めて彼女にヴァイオレットという名を与えたのか考えてみましょう。紫のヴァイオレット(スミレ)の花言葉は「貞淑」「愛」、西洋では「あなたのことで頭がいっぱい」(笑)などと言われ、どれも彼女のキャラクター性を生き写した言葉ではありますが、僕はそれよりもスミレという花の生命力の高さに注目したいです。小さく可憐な姿からは想像できないほど暑さにも寒さにも強く、どんな厳しい環境にも適応して花を咲かせるその雑草のような強靭さは、彼女のなかの"力"や適応性を象徴しているようです。

4話の回想で少佐が彼女に名前をつけるとき、彼は砲車のそばに咲いているスミレを見つけてヴァイオレットという名前を与えました。武器と呼ばれる彼女のなかに確かに存在する少女の可憐さ、厳しい戦場でも生き抜いていくその強さを、少佐はそこに咲くスミレに重ねて見たのかもしれません。あるいはこの先にどんな辛い状況が待っていようと再び立ち上がることのできる強い女性であってほしいという願いも込められていたのかもしれませんね。また、どんな環境にも適応できるスミレは、奇しくも「お客様がお望みならどこでも」駆けつけてくれるドールとしての彼女の名前にぴったりです。

あ、そういえば4話の感想記事ではアイリスの両親がどのような想いを込めて、アイリスにその名前を与えたのか考察していなかった気がします。これを機にちょっと考えてみましょうか。 うーん、そうですね……アイリスの花言葉は「メッセージ」「良き報せ」……ふむふむなるほど……あ、アイリスといえば香りですよ香り。彼女はきっととてもいいニオイがすると思います。(名考察)

 

 

  • 感想

 

誰かの想いが届けられるまでをひとつのエピソードとして考えるなら、8話と9話は二つで一つのエピソードとして捉えることもできるかもしれません。8話のサブタイトルが無いのも思わせぶりですしね。また1話をプロローグとして、2話から5話までがヴァイオレットがドールとして成長していく物語。6話から9話までがヴァイオレットが過去と向き合う物語として構成されているようにも感じます。13話までの放送が告知されていますからシリーズとしては三部構成のような体裁をとっていると言えるかもしれませんね。

 

境界の彼方』を手がけた石立監督が、どんな戦場描写を観せてくれるのか期待していましたが、8話の奪還作戦時の三次元的な音響はヘッドホン推奨ですね。とても臨場感があります。ヴァイオレットの格闘シーンでは小柄な彼女の特性を生かして俊敏でトリッキーな身のこなしを、面白いカメラワークで観せてくれて大満足でした。9話は一転して静かな回でしたが、ヴァイオレットの自決シーンのBGMが煽る緊張感がものスゴいです。そしてスペンサー再登場からの最終回演出。無理矢理でも大げさに過ぎるでもなくスッと入り込むことができて、素直に「いい話だな」と思わせてくれます。とくに最後の社長の「君が自動手記人形としてやってきたことも、消えないんだよ」のセリフ。「消えないんだよ」の慈愛に満ちた子安武人の声音にヤラレましたね。社長は聖母か(笑)

 

ところで原作読者としてはやはり初CMにも登場していたウィッチクラフト(戦斧)が過去編でどう描かれるのか、それとも完全に黒歴史にされるのか気になって身構えていたんですが、どうやら後者だったようです。突然の厨二武器の登場に「え? そういうアニメだったの?」と困惑するTLを眺められなかったのはちょっと残念なような、ホッとしたような……。いや、まだ例のエピソードが残ってるから諦m…油断できない……。ああ、でもアレはアレで好きですよ? 実際原作のなかで描写される立ち回りはなかなかカッコいいですし。映像化したら結構映えると思います。

ただ、アニメ版は作風が言ってみればなんかこう……上品?な仕様なので、まあ、仕方ないですよね。とはいえヴァイオレットの驚異的な戦闘力や耐久性はもう充分すぎるくらい異物なんですけど……。ちなみにヴァイオレットの強さについてですが、原作でもとくに理由付けはされていません。でも、それで構わないと思っています。僕は彼女の強さはあらゆる意味での"力"の象徴性を表しているのだと解釈していて、それは彼女のなかでときに"言葉"の対義語として拮抗しているのだと考えています。生身の腕が軍人としての彼女を、義手がドールとしての彼女をそれぞれ象徴しているように。

この作品、設定面の所々に詩的な風味が混じっているので、そのフィクションラインの見極めに戸惑うのも無理ないかと思います。一方でデザイン面はキャラクターの心理描写が生きるために同化効果を意識したリアル寄りですし。9話のヴァイオレットの鬱描写なんかはとくにリアル基調なドラマ作りがされていたと思います。バランスが難しいんですよねこのアニメ。なので、ヴァイオレットの強さをはじめとする、設定面でのいかにもアニメアニメした表現や文法は、どうにも視聴者の違和感を刺激させてしまうんだと思います。

最近のアニメは映像技術の向上によってリアル表現の精度も上がり、実写とアニメの表現の境は無くなりつつあるなどと言われています。実写的な表現を追求したヒット作も近年目立ちますしね。でも、やっぱり何から何までアニメーターの思いのままにできる画面の制御力はアニメらしさであり、いくらリアルな表現がされていたとしても、そこにはきっと象徴性や意味性が含まれていると思うんですよね。アニメはどこまで行ってもやっぱりアニメなんですよ。このアニメも、その点は同じだと思っています。つまり何が言いたいのかというと、

 

剣心だって14になるまでに飛天御剣流を会得してたろ。(そういうことじゃない)