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『キノの旅 -the Beautiful World- the Animated Series』12話 感想と考察:で、結局エルメスっていったい何なの?

年末のゴタゴタで更新が遅れてしまいましたが、第12話『羊たちの草原』の感想と考察です。

今回は、『羊たちの草原  – Stray Army –』+『旅の終わり  – Kino's Nap –』という二部構成でした。

 

 

ここにきてまさかのモンスターパニック。「え、最終回にこれ?」と誰もが疑問に思ったに違いない謎なチョイスでしたが、かえってこの凡庸さが、まるで来期もしれっとアニメが放送されてそうな気さえしてきて、キノの旅がまだまだ続いていくことを視聴者に意識させます。

しかし、前回を踏まえたうえでキノとエルメスの関係性に改めて焦点を当てることには意味を感じるし、羊相手とはいえアクション映画的なキノの立ち回りを堪能できる楽しい回でもあり、CDアルバムで例えればフィナーレを迎えたあとに思いがけず流れ出すボーナストラック的な小品とも言えます。

一見すると羊に追われ、エルメスと離れ離れになり、反撃して大虐殺するだけの回です。いや、もしかしたらそこに何か深淵なメッセージが込められてるのかもしれませんが、うーん……。よく分からないというのが正直なところですね。

それとも"Army"を「群れ」ではなく、一般的な軍隊の意味として素直に解釈すれば何か見えてくるかもしれない。そう思ってもう一度観直してみたんですが、羊たちのあのアクの強い鳴き声聴いてたらやっぱりなんかもう、どうでもよくなったは\(^p^)/(アフレコ現場のカオスが脳裏にチラつくんだもんなー) ナルホド、これが羊の睡眠導入効果というやつか。

でもまあ、そうは言っても見るべきところがまるでないわけでもなく、ここまで散々逆張りで屁理屈垂れて作品を解釈してきた身としては、もしかするとキノの未来における可能性のひとつでもある、孤独死していた旅人の侘しさにどうしても着目してしまいますね。

彼がたった一人でなかったら、一緒に旅をする仲間がいたら、その悲劇は避けられたかもしれない。キノもそうです。互いを支え合ってるとは言っても、人間一人とバイク一台ではやれることに限りがあるでしょう。キノの生来の幸運がいつまでも続いてくれる保証はありません。作者次第ですが。

 

 

物語も最後ですし、せっかくなので作中最大の謎(?)ともいえるこの点について考えてみたいと思います。エルメス、というよりモトラドが旅人にとってどのような存在なのか。という話です。

僕は散々「キノは孤独だ」と言ってきましたが、なかには「エルメスがいるんだから孤独じゃないじゃん」とツッコミを入れたい方もいたかもしれません。確かにエルメスは喋れますし、知識も豊富で、ボケ担当でもあります。人間らしいかと思えばやはり機械的でどこか淡々としていて、掴み所のない一面もあります。

二人(?)の絆は確かなもののようにも見えますが、それでも僕はキノは孤独だと言わざるを得ません。なぜなら、エルメスはキノを否定することはありませんし、キノもエルメスを否定することはありません。両者のあいだには尊重されるべき個人と個人の衝突、自意識と自意識の衝突というものがまったく存在しないんです。

果たしてそれは健全な他者関係と言えるでしょうか。一緒に旅をしているバディなのだから当然、なんて話はナシです。ときには相手を否定し、それでも理解し、高め合うのが良い意味での絆というものでしょう。シズとティーがすれ違いの果てに「親子」になったように。ティーと陸が互いを理解し合うことで「仲間」になったように。今回、エルメスと離れ離れになったときのキノはとても頼りなく、まるで魂の片割れが奪われてしまったような心細さを感じさせました。

キノとエルメスの関係を冷静に見てみると、僕のなかで「エルメス」という一人格は途端にその存在意義が不安定なものになっていきます。それは記号化され、皮相化され、キノの一部として取り込まれてしまうんです。キノにとってエルメスは、旅を志向するために自分自身に課した行動規範が具現化されたようなものであると僕は考えています。簡単に言ってしまえばキノの別人格みたいなものです。(「みたいなもの」としたのは、エルメスはキノが知らない知識を持っているようで、そこにある程度の他者性が認められるからです)

故郷で身の危険を感じたとき、キノには第三の選択である「逃避」が必要でした。そのための「足」が必要でした。それを形にしてくれたのがエルメスです。生の意味を失ったフォトには新しい生きる意味が必要でした。それを与えてくれたのはソウです。キノにとってエルメスは、あるいは旅人にとってモトラドは独立した一人格としての必要性よりも、あくまで自身が旅人となるために必要な行動規範を与えてくれる旅の守護神という舞台装置、旅人が旅人であるために必要な規範価値そのものの象徴として、作品上で要請された存在なのだと思います。

なので、あくまで僕が知るアニメシリーズの範囲内ですが、エルメスがどんな痛みや弱さを抱えているのか、キャラクターを立体化するそういった負の内面が作中で掘り下げられることはありません。キノを慰めることはあってもキノに慰められることはない。その存在理由は常にキノを立体化し可視化させるためのもので、エルメスは他我というものがひどく曖昧な、平面的で反射的なキャラクターなんです。そういう意味で、僕はキノが孤独だと感じてしまうんです。

エルメスの言い間違いをキノが正し、「そうそれ」とエルメスが返す例の掛け合い。あれもキノのひとりノリツッコミです。エルメスは公式で擬人化されてる? そんなの知りません。

 

 

エルメスはキノに旅以外の生きる道を勧めません。モトラドですから。僕はこのことがまるで、エルメスがキノを旅に縛り付けてるように感じて少しぞっとしていました。しかし、エルメスが旅を求めること、それがキノが旅を求めてることの証左であるなら、逆にキノが旅を終わらせたいと思うとき、エルメスもまた同じように思うのかもしれません。

ただ、そのときにはやはりエルメスの存在意義は失われてしまいます。解体を望むか、新しいパートナーを見つけて契約するか、どちらかの道しかないでしょうね。これまでもそうした出会いと別れを経験してきたのかもしれません。知識=情報が豊富なのもそのためかもしれませんね。パートナーのことや経験してきた思い出といった記憶は解体されると失われてしまうのでしょう。そして、新しい出会いのたびに契約という名のライセンス登録を繰り返してきたのではないでしょうか。

 

 

 

  • 感想

 

アニメは終わりましたが、キノの旅はまだまだ続くようです。優しい国は滅びました。大人の国も滅びました。運命はキノが旅を終えることを許してはくれません。視聴者も許してくれません。ソフトメーカーも出版社も許してくれません。

僕はというと、キノのこれからの旅もまだまだ観たいという気持ちと、キノがもうどこかの国で旅を終えていてほしいという気持ちで正直半々です。アニメが終わった後でさえ、やっぱりこの作品は僕をどっち付かずの宙ぶらりんにさせるようです。

 

前作をリアルタイムで視聴していたわけではありませんが、前作と今作とでは観ているこちらの状況も変化し、多少は社会の荒波にもまれ、ものごとの捉え方も以前とは違ったものになってしまいました。それが大人になったということなのか、かえって余計に拗らせた結果なのかはイマイチよく分かりませんが……。

例えば個人的に大きく変化したのは、先代キノですね。前作では彼のことを本当にカッコいいと思えたんですよ。でも、なんでしょう、今作の彼はなんだかとっても……青臭く思えて観てられなかったです(笑)

そう思ってしまうのはやはり、シズの存在が大きいでしょうね。彼の視点に寄り添うことで「親」を疑似体験し、本当にキノの生き方に対する見方が変わりましたし。うーん、やっぱりキノには旅を終えてほしいかな。キノ自身が言っていたように「人の状況は考え方次第でなんとでもなる」のなら、どこかの国に根を下ろすことだってできるはずです。羊に追われて夜空を見上げたとき、エルメスがいなくたって星空はとても綺麗に映えていました。

あ、そう考えると今回の話に出てきた羊たちは、もしかするとキノからエルメスの影を引き剥がそうとしていたのかもしれませんね。キノにとってあの羊たちは、自分を孤独な旅から解放させようと余計なお節介を焼いてくる「集団側」の意思、そしてそれを払拭できずにいるキノの強迫観念が投影されていたのかもしれません。ハッ! もしや、羊に追われていたのはハンモックで寝ていたときの夢なのか? 夢オチなのか?

 

ああ! でもやっぱりこのスタッフで2期を作ってほしいという気持ちもありますね。表現主義に寄った演出や構成は観れば観るほど発見があり、とても語りがいがありました。文字媒体という制約の大きいメディアのなかで、表現や遊び心をつめ込む原作の雰囲気を、限りなく再現しようと尽力する、表現者としての矜持が垣間見えるアニメ作品だったと思います。でもなあ……そうは言ってもなあ……。

 

うーーーん、じゃあ間を取って、2期では最後、キノの手でボロボロになるまで叩き壊されるエルメスが観られますように。