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『キノの旅 -the Beautiful World- the Animated Series』10話 感想と考察:本当に優しくないのは誰だ

第10話『優しい国』の感想と考察です。

今回は『優しい国  – Tomorrow Never Comes. –』の単独構成でした。

 

※今回の記事は、前作(2003年版)を視聴済みでなければピンとこない内容(とくに、次回『大人の国』についての言及)を一部含んでいます。直接的なネタバレは避けてるつもりですが、どうしても心配だという方は、少なくとも次回を視聴したうえで読まれることをお勧めします。

 

 

では、まずは考察から。

 

  • 「優しい国」のなかに含まれる寓意

 

英題の"Tomorrow Never Comes."は直訳すると「明日はけっして来ない」ですが、これは英語のことわざで、明日が訪れたらそれは"今日"という日なのだから、明日と呼べる日はこの世に存在しない。だから、やるべきことを存在しないはずの明日に先送りしていたら、それはいつまで経っても実現できない。今日すべきことは今日せよ。明日やろうはバカ野郎。という意味の言葉です。オーケー、明日から本気出す。

旅人の評判が最悪な「優しくない国」の人々は、学者の調査で明らかになった噴火予測によって、この言葉と真剣に向き合わざるを得なくなりました。あいにく、超科学なエネルギー出力装置も巨大なキャタピラの製造技術も持たず、迫害の歴史と外の世界への不信しか持たない彼らは、建国者たちが永住の地と定めたこの土地とともに滅ぶことを決意します。

残された時間をどう生きるべきか。この国の誰もがその問題と向き合い、これまでの生き方を省みて、一日一日を大切に過ごしていきます。ある者はパースエイダー・スミス(おそらく相棒)のように誰かに何かを託し、ある者は若い新郎新婦のように、失った未来をその最期の一瞬まで取り戻そうとする。さくらもそのうちの一人でした。

彼女はいろいろなことを知り、素敵な案内人として決して忘れられない思い出を旅人に提供するという夢を、キノとのふれ合いを通して叶えようとしました。それだけではありません。両親とキノに気を遣い、その小さな身体で死をも受け容れてしまうくらい、彼女はこの短い時間のなかで精神的に大人へと成長できたのだと思います。

死が彼らの生を輝かせました。死を思うことは生を思うことと同義です。メメント・モリ(死を忘れるな)というやつですね。その思考の果てで彼らは、それがただのエゴや虚栄心だったとしても、自分たちの生を意味あるものとするために、キノを歓待し、その記憶のなかで「優しい国」として生き続けることを望みます。自分が生きた証を遺して逝くというのは、ちょっと作家の生き方にも通じるかもしれませんね。

ちなみに、さくらの名前の由来であり、国の歴史を語る劇の背景画にもなっていた桜。その花言葉は「精神の美」「優美な女性」など、美についての言葉が多いです。それだけでもとっても示唆的ですが、花言葉は外国にも存在します。フランスでの桜の花言葉は「私を忘れないで」です。

記憶とともに深い悲しみをキノに刻みつけた「優しい国」は、やはり「優しくない国」だったのかもしれません。

 

  • 追加されたキノの台詞

 

さくらの母親からの手紙を読んだあとに、キノが漏らした「さくらちゃんが、無理矢理にでもお預けされなくて、助かったと、ホッとしている」の台詞。これは前作には無かったもので、前作では手紙を読んだあとにそのまま「エゴだよ。これはエゴだ」と続きます。

調べてみると原作でも前作と同様の流れになっているようで、この台詞が追加されたのは前作劇場版2作目『病気の国』(2007)が上映された際に、映画館で限定販売された『電撃劇場文庫』のなかでこのエピソードが再録されたときらしいです。

今作放送後の時雨沢恵一のツイートによると、台詞が追加された「ロングバージョン」の方が本来意図したもので、再アニメ化を機にこちらの仕様で制作してくれとアニメスタッフに依頼したそうです。

僕は今作を観るまで前作の流れしか知らなかったので、キノの言う「エゴ」はさくらの両親へ向けられた言葉だと思っていました。しかし、追加されたこの台詞によって解釈はまるで別のものとなりました。

では、あえてキノの弱さを強調させたその意図とはなんだったのでしょう。

 

  • 「優しい国」のなかに含まれるもう一つの寓意

 

ファーストカットとラストカットに登場する花は竜胆(りんどう)ですね。曇りや雨の日には花を閉じ、晴れた日には太陽に向かって花を開かせる特徴を持つ秋を代表する山野草で、敬老の日に贈られる花として有名です。「あなたの悲しみに寄り添う」という優しい花言葉や「悲しんでいるあなたを愛する」というちょっと優しくない花言葉があるそうです。

ラストカットで墓石のような岩肌にびっしりと咲き誇っていた竜胆。その様子はまるで灰の下に埋もれた国へたむけられた墓花のようにも見えます。竜胆は優しい国の人々を象徴している花なのだと思います。しかし、この花が選ばれたのは花言葉だけが理由ではないと僕は考えます。

竜胆のもう一つの特徴は、群生せずに一本一本咲く花であることです。ここで優しい国の歴史を改めて振り返ると、「遠くの国で迫害され、追われた人たち」は「長い長い放浪の旅を続け」「深い森の中」にたどり着き「恐ろしいように見えたこの森の恵み」に救われ、その土地に根を下ろしたとあります。

これってキノの人生そのものだと思うんですよ。「森」とは何が正しいことであるのかハッキリしないこの世界の象徴であり、「森の恵み」とはそんな世界が時折見せる愛おしい瞬間のことのようにも解釈できます。キノが放浪の末にたどり着き、思いがけず惹かれていったこの国は、建国者たちの旅の終わりの象徴であると同時に、まさにキノの旅の終わりを象徴していたのではないでしょうか。

この国そのものがキノの生き写しであり、キノが望む理想の居場所、心の安寧を与えてくれる拠り所を投影した蜃気楼のようなものであったのだと僕は思います。群れから追われて咲くかのような竜胆は、優しい国とキノ、あるいは旅人そのものを象徴していたのかもしれません。

 

  • 旅を終わらせられないキノの弱さ

 

すっかりほだされたキノでしたが、滞在の延長は許されず、再び旅を続けざるを得なくなりました。その直後、何も知らない子どもを巻き添えにする集団自決という、おそらくキノが最も嫌悪する選択によって国は滅びました。でも、内心キノはそのことにホッとしていたのではないかと僕は考えます。「ああ、やっぱりここも僕の居場所ではなかった」と、喪失感を引きずることなく、これまでのように旅を続けることができますから。

終わりはどうあれ、すべてを知ったあとで「楽しかった」と口にしたキノに嘘はなかったと思います。しかし、人の営みに憧れながらも、どこかでそれを拒否し、都合のよい言い訳が出来て安心してる。キノが気持ちをふっ切ってエルメスを走らせるラストシーンには、そんな複雑な心境が隠されていたように僕は思ってしまうんですよ。(性格悪いなー、オレ)

さくらや、5話の『旅人の話』のラストに登場した少年のように、旅人と宿屋の子どもはこの作品において象徴的なキャラクターとして配置され、そのあいだには"旅する者"と"留まる者"という対照的な対応関係が見て取れます。

さくらは留まる生き方を選びました。彼女は薄暮の展望台で、旅人の思い出作りの手伝いができる案内人は、素敵な仕事であると誇らしげに語りました。キノは本気でその言葉に感銘を受けます。結婚式で種の袋を欲した彼女は、素敵な花嫁になることを夢見ていました。キノは本気で彼女の夢を後押しします。なんだかさくらの方がよっぽど大人に見えます。

地域社会に根を下ろし、仕事に就き、結婚する。それは、これまでキノが心の隅で疑い、軽んじ、恐れてきた生き方だったのではないでしょうか。第1話のアバンでもキノはこう述懐しています。「ボクはね 、たまに自分がどうしようもない 、愚かで矮小な奴ではないか? ものすごく汚い人間ではないか? なぜだかよく分からないけど 、そう感じる時があるんだ 」 さくらを前にすると、どうしても確信を持てない自分の生き方と向き合わなければなりません。しかし、なんの責任も背負わずに一人で旅をしているあいだは自由であり、自己本位でいられます。僕はキノアンチじゃありません。

ここにきてこのアニメは、中立的な視座を堅持してきたそのスタンスの通り、キノとさくらを対比させることで、社会の道理に反発して、ニヒリストを気取りながら高みで傍観してきた皮肉屋のキノに対し、本当はただ自意識をこじらせるあまり、他人の人生を背負う覚悟が持てずにいる臆病者ではないのかと、自省的な視点をハッキリと提示してきたのではないでしょうか。それを僕に確信させるのが、追加されたキノの台詞なのです。僕はキノアンチじゃありません。

 

本当に優しくないのは誰でしょうか。

悲しみの記憶をキノに刻みつけた優しい国の人々でしょうか。自分よりもよっぽど大人なさくらを面倒に思ってしまったキノでしょうか。

それとも、キノに共感して、今まさに自意識をこじらせて「人間強度が下がる」からと孤高を気取り、「本物が欲しい」フリをして自己陶酔と自己憐憫に耽りながらも、こんな自分を理想の何処かや理想の誰かが「ありのまま」受けとめてくれる、そんな「明日」がいつかやってくると無根拠に信じてるオr…視聴者の頬を引っ叩いて突き放す、このアニメそのものでしょうか。

 

 

  • 感想

 

キノすら告発するこのニュートラルな視点は、実はすでに別の形によっても提示されていました。シズやフォトといったサブ主人公たちの存在です。視聴者のなかには「シズの話多くね?」とか「中盤のキノ、影薄すぎ」といった感想を持った方も多いと思います。

僕はこの構成は意図的なもので、あえてシズやフォトの視点を視聴者に強く印象付けることが目的だと思っています。つまり、前作のようにキノの価値観に寄ったキノ主体の構成ではなく、キノとは別の対等な視点にも添うことによって、キノの生き方に対して相対的な見方ができるような構成を制作は企図したのではないかと思うんですよ。前作でキノに従属するだけだった視聴者は、今作によって自立して物語を俯瞰できるというワケです。

普通に考えたら、人気エピソードとはいえ終盤に2話分もリメイクで埋める構成には疑問でしたが、キノを客観視させたうえで、また違った印象で物語を観せるための仕掛けであるならば納得です。うん、そうだ。きっと、そうに違いない。終盤で作画がちょっとくらいヘタっても、人気エピソードならきっと大目に見てくれるだろう的な采配なんかじゃ決してない。

 

ちなみに、前作はこの点について無自覚であったのかというと、そうとも言えません。改めて観返してみても気付かされることが多々ありました。ただ単に僕が読み取れていなかっただけです。前作視聴時はつい、キノに感情移入しすぎた解釈に寄ってしまいました。(言い訳) それは今作の放送開始時に投稿したコラムを読んでみても明らかです。いま読み返してみるとフリーターの自己弁護にしか思えません。正直、削除したいです。

それにしてもやっぱスゲェです中村版。いまどきのキャラデザでは描ききれない絶妙な感情表現が炸裂してます。絵柄で食わず嫌いしてる人はもったいないですよ?

 

でも、『大人の国』の前にこのエピソードを持ってきた意図は今だによく分かりませんね。前回の次回予告を観たとき、おそらく前作を知る視聴者の多くがそう思ったんじゃないですかね?

だって、『大人の国』という物語が先にあるからこそ視聴者は、さくらに対して「もう一人のキノ」という印象を強く重ね、この国に心惹かれていくキノに強く感情移入し、それすらも手にできなかった悲劇に強く打ちひしがれることができるんですから。しかも今回、さくらがキノを女の子扱いしすぎww

あまり感情移入させたくなかったのかな。でも、今回の話の後にアレじゃ、せっかく意識されたニュートラルな視座が霞んで、結局またキノの価値観に寄ってしまう気が……。うーん、まあ、次回を待つとしましょう。

 

いやあ、しかしさくら役の子のまっすぐで澄んだ演技にはひき込まれ、グッと涙を誘われますね。展望台で夢を語るシーン、夢が見られる最後の夜を迎えて街の灯りがともっていく感動演出(ここほんと好き)とあいまってマジやべぇですが、ラストの手紙の止め絵シーンもほんともう……マジ…………。しかもあの子『URAHARA』のですなちゃんだったのか。すごいなあ。

悠木碧が前作のさくら役を演じていたことを知ったのは、ニコ生企画の『多数決ドラマ』で彼女自身が語ったときですが、やはり今回の話は一視聴者としても感慨深いものがありますね。前作で声優として旅立った彼女もいまでは立派に、処女ビッチで、ヤンレズで、アホバナナですよ。