UglySmile

人生には物語とROCKが必要だ。

『キノの旅 -the Beautiful World-』コラム:キノが旅に出る理由

少年のようでもあり少女のようでもある。乗り物のようでもあり生き物のようでもある。

記号に囚われない中性的な1人と1台が、記号化された秩序に囚われる小国を横断し続けるロードムービーアニメ。

前テレビシリーズから十数年の時を経て再映像化されたその意味を、前作を含めた文脈のなかで読み解くために(読み解けるとは言ってない)自分のなかで今一度『キノの旅』という作品を総括しておきたいと思い、記事にすることにしました。

つーかまあ、ぶっちゃけると長文記事の練習です。ハイ。

ネタバレは避けますが前作視聴済みが前提の語り口調なので、ひょっとすると新作から『キノ』に触れる完全新規の方は、読んでみても楽しい記事ではないかもしれません。

 

 

 

この作品で最も印象深いのはそれぞれの国でキノが直面する不条理であり、それらの多くは国の文化や価値観に盲目的に従っている国民との亀裂によってもたらされるものです。

内側にいる国民にとっては疑念も息苦しさもおぼえない自国のルールや特性ですが、ストレンジャーであるキノの俯瞰的な視座を借りて眺めるからこそ、それはとても気味が悪く居心地の悪いものとして映るんですよね。

この中立な視座は一話完結の短編という形式をとることによってメタ的に視聴者に意識されますが、さらにサブタイトルとは真逆の国の実情や、キノが外で聞きかじった前評判とは真逆の展開というストーリーテリングによっても繰り返し印象付けられます。

それだけに自省も柔軟性も欠ける極めて記号化されたそれぞれの国のありようは、その先にある自由意思の死を幻視させ、留まることへの不安を僕に強く直感させるんですよ。

 

では大衆にツバ吐いてデラシネのままでいることが正解なのかというと、そうとも言えないのがこの作品の煮え切らないところです。

キノは基本的に国の内情に深入りせず、生きるために必要なら人も殺しますが、決して他者への志向性を無くしているわけではありません。それぞれの国の文化や生活の営みに対して人並みの好奇心を持ちながら旅をしているんですよ。でないと物語が完結しちゃいますから。

しかしキノがそれらに対して素直な気持ちで感動できるのは、国を横断しニュートラルかつ批判的な立場で人々の生活と寄り添える視座を持つからなんです。

そしてその視座の聡明さを育てるのは、常に外へ向かって開かれている好奇心です。

人の連帯に憧れながらも、それゆえに孤独を宿命づけられているという矛盾がキノの中には保存され、相反する両者の間をいつまでも往復し続ける……。

 

繰り返される孤独と連帯の往復。それがキノの旅の本質のように思えます。

僕がキノの生き方に憧れと哀れみを同時に感じてしまうのはそのせいでしょうね。

 

 

  • なぜ今『キノ』なのか

 

孤独と連帯の併存で思い出すのはアルベール・カミュの世界観ですね。

彼の著作ではコミュニティの中で感じる息苦しさや孤独が、閉鎖的な環境に生きる主人公たちの視点を通して反復します。また短編集『追放と王国』の一編、『ヨナ(あるいは制作する芸術家)』のなかでカミュは孤独:solitaireと連帯:solidaireはよく似ていて、それぞれが自らの中に相手を内包していることを示唆していました。

孤独の中に連帯があり、連帯の中に孤独がある。それは現代社会を生き写す言葉のように思えます。

 

ネットの拡大によって帰属できるコミュニティの数は過去とは比べ物にならないほど増えました。

しかし開かれた情報の大海原だったはずのネット社会で、人々は日々襲ってくる情報量の波を乗りこなすことができず、かえってそれぞれのコミュニティの中で身を守るように退嬰と分断を加速させながら視野狭窄に陥っていきます。こと最近のオタク文化においてもそれは顕著であるように思えます。

まあ元々が見た目も歳も性別も出自も関係ない、制限的なコミュニケーション手段が都合よくて発展したものなのだから当然といえば当然なんですが、もっと寛容で能動的な未来がやってくることをかつて期待したこともあったのですよ。

 

ネットの国もリアルの国と同じように、やはり生きにくさを感じる場所でした。

キノの物語におぼえる僕の憧れと哀れみは、より一層の共感をもって次元の壁を越境しそうです。